毎日は無理だ

楽しく生きていきたいので考えますね

LGBTという言葉を使わない時代が早く来て欲しい

友達の少ない私にも、親友と呼んでも良いのではないかと思うくらい仲の良い友人が数名いる。

 

そのうちの1人とは、中学生の頃から顔見知りで、偶然同じ高校に入学した。

部活が一緒になり、3年間隣のクラスだった私達は、驚くほど気が合い、放課後大体いつも一緒にいた。

 

 

私はバニラのアイスクリームが好きだったし、彼女は氷菓と書かれたシャーベットのようなぶどう味のアイスが好きで、放課後よくコンビニに寄って、買った店の前ですぐ食べていた。冬以外はよくコンビニの前でアイスを食べていて、冬でもたまに食べていた。
そんな生活を送り続けたものだから、高校2年生のときは2人とも太ったりした。私達が運動部に入っていればそんなことはなかったかもしれないが、我々は合唱部だった。

 

 

そんなある日彼女に「好きな人ができた」と告げられた。

 


彼女には好きな人がいるんだろう、あの人が好きなんだろう、とは思っていた。私達は不思議なことに、なんとなくお互い考えていることがわかる、ときがある。とは言え彼女がとてもわかりやすタイプだから、という理由は大いにあるが。

 

やはり彼女の好きな人は私の思った通りの人物だった。

 


ここまではありきたりな女子高生の思い出話かもしれない。
でももしかしたら、よくある思い出話とは少し違うかもしれない。

 


彼女が好きになった人は女の子だったからだ。

 


私は確か「なんとなくそうかなって思ってたよ」とか、そんなようなことを言った気がする。
「本当に好きなんだよ」と言った彼女に「わかってるよ」と言ったことはよく覚えている。
彼女が好きな人はたぶんその人だろうと本当にそう思っていたし、彼女の気持ちが本気だということもわかっていたから。

 

私はそれまで何度か男の子に片思いをしたことはあれど、誰とも付き合ったことがなく、高校生の頃は好きな人もいなかった。
それでも「好きな人がいる」と言った彼女の気持ちは正真正銘の恋だとわかっていたし、当時恋をしていない私には、恋をする彼女が羨ましくもあった。

 

 

 

LGBT」という言葉もまだ知らない私達は、放課後にコンビニの前でアイスを食べたり、恋をしたり、恋する友人を応援したりする、普通の高校生活を送っていた。

 

 

 

それから私達は別々の進路を選び、高校生の頃のように毎日一緒に帰ったりしなくなった。
私は何人かの男の人と付き合ったし、彼女は何人かの男の人と女の人と付き合ったことがある。

 

私の親友はバイセクシャル両性愛者だ。

 

 

 

 

 

LGBTとは、女性同性愛者、男性同性愛者、両性愛者、身体の性と心の性が一致していないトランスジェンダー、それぞれの各単語の頭文字をとってつくられた表現だそうだ。また、セクシャルマイノリティではあるがLGBTには当てはまらない人(Queer/クィア)や、男と女という二択しかない性別に違和感を抱いていたり性別に迷いがある人(Questioning/クエスチョニング)のことを指す「Q」を足して LGBTQと表現することもある。
この記事においては周知の進んだ「LGBT」という表現を使うが、私の使う「LGBT」は「LGBTQ」という意味合いで捉えて欲しい。

 

 

LGBTはおよそ12人に1人の割合でいると言われており、これは左利きや、日本における血液型AB型の人口とほぼ同じだそうだ。

 

しかし私の身の周りには、彼女以外にLGBTを公言している人はいない。私は知らない。
いくら私の友人知人の絶対数が少ないとは言え、さすがに私だって小中高と学校へ通い、専門学校も行って、社会にも出ており、左利きや、AB型の人とだって沢山出会ってきたというのに。

これは単に、実はLGBTの彼ら彼女らが、私に「LGBTだ」とは言ってくれていないだけなのだと思う。

 

 

 

なぜ教えてくれないのか?

そもそも自分のセクシャリティなんて、べらべら喋るようなものでもないので、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
聞かれてもいないのに「私は生まれたときから身体が女で心も女!そして男性が好きです!それも年上!背はできれば私より少し高く!筋肉がほどよくあり華奢でない!そしてとにかく優しい人が好きです!」なんて言われても困りますよね。ちなみにこれは私の好みの話です。

 

ただ、もしも、私がこれまで出会った彼ら彼女らが、偏見を持たれることを恐れて、私にしたかったかもしれない「好きな人の話」や、「今付き合っている人のノロケ」を聞かせてくれていなかったのだとしたら、私は悲しい。「ッカーーー!ノロケかよ!!ケッ!!!!」って、僻みながら言ってあげたかった。

 

 

 

人は他人の恋愛事なんて、ほとんどどうでも良いと思っているはずだ、と私は思う。だって自分に関係のないことだから。

 

でも、自分の友人や家族が、同性愛者だったり、生まれながらの性別に違和感を持っていたりしたら、どうだろう。
「同性愛者だから」「生まれつきの性と心の性が一致していないから」などという理由だけで、人はいきなり友人や、家族を辞めたりできるのだろうか。

 

私は違うと思う。そんな理由で終わってしまう友人や家族関係なんて、そもそもなかったのと同じ、で良いと思う。

 

 

 

性的指向や、性別だけで他人を勝手に判断する時代なんて早く終わって欲しい。
LGBTがマイノリティだから、何だと言うのだろう。誰しもがマイノリティな部分を持っているはずなのに、LGBTだけにおおっぴらな偏見をぶつけるだなんて馬鹿げている。

 

小学校の道徳の授業で「相手の立場になって考えましょう」と熱心に教えられた私からしてみれば、「自分らしく生きる」人々に対して「異常だ」「気持ち悪い」「生産性がない」などと酷い言葉を平気で投げる人のほうがよっぽど異常だ思うのだがどうだろう。
大人になると義務教育のことなんて忘れてしまうのだろうか。

 

 

人が人を好きになるということ、人が人を愛するということは「特別」ではあれど、「特異」なんてことはないのだと思う。
現に私の親友はただ恋をし、私はただその恋を応援するという、割とよくある高校生活だったと思う。たしかにその「青春」と呼べるかもしれない時間は、特別な時間ではあったが、特異でも異常なものでもない。
強いて言うなら、コンビニの前でアイスを食べることは、あまり褒められたことではないかもしれない。

 

 

私自身は、身体が女性で心も女性で、これまで男性しか好きになってこなかった、いわゆる多数派だと思う。
しかし、私の親友をはじめとするLGBTと呼ばれる人々が「自分らしく生きる」という全ての人に認められているはずの権利を守られず、窮屈に生きているのはおかしいと思う。
好きになる相手の性別や、自己の性の認識によって、その権利が守られたり、守られなかったりすることが不思議でならない。

 

LGBTは12人に1人しかおらず、たしかに割合としては少数派だと思う。
しかし、この先世間がずっと多数決のままならば、少数派であるLGBTの人々は未来永劫「自分らしく生きる」ことを否定され続けてしまう。

 

 

 

だからこそ、当事者ではない多数派の人間も「おかしい」と思うことに対してきちんと「おかしい」と声をあげるべきだと思う。LGBT当事者は少数派でも、多数派が味方につけば、多数決だってどうにかできる。


もちろん、他人なんてどうだって良い、誰と誰が結婚しようがしまいが関係ない、という気持ちもわかる。

でももし、家族や、仲の良い友達、子供が、実はLGBTだったとしたら?
あなたに偏見を持たれまいと、差別されないようにと、性的指向や、自分の認識している性を、伝えたくても言えずにいるのだとしたら?
もしかしたら1人で悩んでいる大切な人が、身近にいるかもしれないとしたら。

 

LGBTは12人に1人。左利きや、AB型と同じ割合で存在している。

 

家族や友達がLGBTだと知って「LGBTだったから」というだけの理由で家族や、友達を辞めるのだろうか。それとも、彼ら彼女らの恋の話や悩みを、これまで通りの家族や友人という関係性のまま聞くのだろうか。
私達多数派がただ気付いていない、知らないだけで、LGBTへの認知・偏見問題は私達のすぐそばにあるものなのだと思う。

 


現在日本では、LGBTに関する教育は義務教育で行わないという方針だそうだ。
これにも私は疑問を持っている。むしろ義務教育にこそLGBTテーマを取り入れ「人は皆マイノリティーを持ち、平等に自分らしく好きなように生きる権利がある」ということを全ての人が早いうちから知っておくべきなのではないかと思う。
「みんなちがって みんないい」とは教わったが、もっと具体的な教育へ踏み込むべきではないだろうか。金子みすゞ氏の詩はもちろん素晴らしいが、「小鳥」と「鈴」という暗喩表現で、児童にセクシャルマイノリティを理解してもらうのは少し遠回りかもしれない。
LGBTというセクシャルマイノリティがあるということをただ知っておくだけでも、「自分は同性愛者だ」「自分はトランスジェンダーなんだ」などと自覚し、マイノリティだと悩む子供を減らせるのではないだろうか。たとえ少数派だったとしても「周りの理解がある」「自分らしく生きて良い」と思えることがどんなに心強いことか。

 


異性愛者であろうが、同性愛者であろうが、結婚をする・しないの選択はもちろん自由だ。愛し合う2人が望むのなら結婚すれば良いし、しなくても良い。
同様に恋愛をする・しないの選択だって自由だ。誰かの「する自由」は、誰かの「しない自由」に繋がっているべきだと思う。

そしてその「する自由」と「しない自由」は全ての人が平等に持っているはずだ。

 

 


少し、親友のことを紹介させてほしい。

 

バイセクシャルの親友は現在、よしむらさおり という名でシンガーソングライターをしている。

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高校時代、私が応援していた彼女の恋は『二つのスカート』という曲になった。私達の母校の後輩が、私達も着ていたのと同じ母校の制服を着てPVに出演している。ちなみに我が校の夏服は県内でも2番目にかわいいと有名だ。

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初めて私がこの曲を聴いたとき、私は自分の学生時代の片思いのことを思い出した。
これを聴いてもらえば、同性間の恋が「特異なもの」ではないという理解が進むのではないかと思う。


そしてそんな彼女は、歌でLGBTを応援したい、とクラウドファンディングで資金を集め、売り上げの半分をLGBT認知のための活動団体へ寄付するとして、2ndアルバム『palette』を5月18日にリリースする予定だ。

youtu.be

 

よしむらさおり official website

オフィシャルサイトで予約購入も可能です。

 

まだ少し先のことではあるが、思い出して買ってくれたら、私は嬉しい。
彼女のCDを購入することは、セクシャルマイノリティに対する理解と支援であるからだ。そしてまた、私がアルバムのジャケットデザインを担当しているためだ。なお『二つのスカート』でもジャケットの絵を私が描いているくらい我々には癒着がある。
そしてこれを書いている今もなお、私はこのCDのデザイン締め切りに追われている。今はデータ確認をしている段階なのでこうして考えを綴ったりできているが、この後データ確認が終わり、修正地獄が待っているのかと思うと本当につらい。もしも買ってもらえたなら、このつらい思いも報われるというものだ。

 

しかしながら、CDを買わなかったとしてもこの記事をここまで読んでくれているのなら、きっと私の伝えたいことはもう伝わっていると思う。

 

 

 

 

私はLGBTというマイノリティだけが、こうも異常なよう扱われていることにやはり違和感がある。
LGBTを理解する」なんて、そんな大それたことは必要ない。各個人の持つマイノリティな部分なんて、そもそも絶対に理解し合えるものではないのだから。

ただ、個人の性的指向や性別によって差別することをやめるだけ。男性か女性かトランスジェンダーか性を迷っているか、異性愛者か同性愛者か両性愛者か無性愛者か。そんな区切りではなく、1人の人間として他者をみる。それで十分だと思う。

 

そんなふうに差別がなくなれば、もうLGBTなんて言葉も必要が無くなると思う。そんな区別も必要ない。
私は早くLGBTという言葉を使わない時代が来て欲しい。